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沿革あじさいイラスト

常住寺のあゆみ

 明治二年、唐沢善次郎、大野六兵衛の両氏、発願して妙教講社を函館区蓬来町の一隅に創立す。
更に身延山に対し寺号公称を申請す。時あたかも明治改元の変動期にして、国内外と共に日蓮宗に於いても、新制宗門確立の繁忙の時期たり。
明治七年初めて日蓮宗管長の制度確立し初代管長に文明院日薩上人就任す。明治仏教会の傑人にして我が常住寺の開山たり。上人職を奉ずるや特に意を北海道の布教伝道に注ぎ、北海道布教案を作成し(明治八年)教部省に提出し、先に申請せる唐沢、大野両氏の寺号公称の申請に開基曼荼羅を与え援助を約せり。後、明治十六年十一月十七日附をもって相生町に久成山常住寺の寺号の公称を許可せり。

 爾来河瀬日円師、日喜師を経て、五世松森日東師に至り、遂に日高三石に北門寺を更に明治三十五年厚岸に法華寺を創設、土田日宝師、酒井日正師を経て大八世鈴木錬栄日統上人嗣法す。上人は水戸藩家老4の家に生まれ、幼少より剣道を学び、中山博道氏と兄弟弟子なり。日蓮宗大檀林を卒業の後、水戸本行寺、石岡平等寺を歴世して明治四十二年に嗣法す。布教伝導に意を注ぐも大正の大火の厄に遭い全堂宇灰尽くす。
4更に昭和六年宗祖六百五十遠忌を目指し石造本堂、大客殿、庫裡を完成させるも、昭和九年の大火災に4遭い再度灰尽に帰す。上人意を更に決して再度再建の途につくも、檀信徒の大半は火災に遭いその道の嶮しき事、口の宣るところにあらず。昭和十三年約五ヶ年を経て遂に現在の堂宇の再建を見、上人を中興の師という。

 昭和廿四年鈴木曦栄日達上人第九世を嗣法す。上人宗務所長、輪番区長、宗務区長の要職を歴任し、宗祖第七百遠忌を期し納骨堂、庫裡の新築を完成し昭和五十九年退寺、同六十二年遷化す。
鈴木曦寛日宇上人第十世を嗣法し平成二年文明院日薩上人第百回忌報恩事業として、永代祠堂二千二百余仏を祠る大供養壇を円成し今日を迎えたり。
これは又、檀信徒の各位の信仰の果実にて、永き未来への第一歩と勘ず。

昭和九年の大火で灰尽に帰した常住寺大本堂と客殿

寫眞は北海道函館市相生町常住寺の大本堂及び客殿である。同寺は創立四十年を出でざる新寺で大正四年大火に類焼、大正八年再び数万の大金を投じて再建されたもので、開基は新居日薩上人現在は第八世鈴木錬榮上人である。常時の再建は実にこの鈴木上人に依って完成されたもので中興の祖として推賞されているが、同時に斯る堂々たる新寺経営に努力する檀信徒の功を賞賛せずに入られぬ。

上記写真と記事は昭和五年日蓮宗宗務院発行月刊誌「日蓮主義」七月号に掲載されたものである。
大本堂写真中央の基礎工事の祈念塔は現存し大火焼失後、現在の本堂はほぼ同位置に建立されたことが分かる。
なお相生町は後に青柳町に併合された